長らくご無沙汰してゐました。すつかりこの日誌の書き方も忘れてしまつた今日この頃ですが、この日誌をご覧になつてゐらつしやつた皆様方にをかれましては、いかがお過ごしでございませうか。
わたしは相変はらずです。泣いてる日もあります、笑ふ日だつてあります。ラノベばかりで蔵書を1%増やしたりしてゐる今日この頃です。
最近はいろいろなことを考へつつ、なかなかこの日誌に書くといふことはなかつたのですが、最近とみに思ふようになつてきたことがあつたのでちよつとだけ。
「空気を読む」とか「ブログの炎上」とかが喧しい今日この頃の雰囲気は全体主義的だなと。
他人に空気を読ませ、意に沿はない発言を行つた人物のブログが攻撃的文章で満たされる。これは個人の自由な思想を阻む全体主義的な思想ではないのかと。
わたしが現在漏れ聞く、いはゆる15年戦争の頃の雰囲気といふのは、まさにこのやうな雰囲気ではなかつたのかと。その頃の雰囲気にあつて現在にないものといへば、もはや粘着質だけではないのかと。
わたしはマスコミ嫌ひなのでかういふことを書くのですが、マスコミが嫌ふところの絵にならないもの、不細工なものがマスコミによつて攻撃され、さらにあまねく大衆によつて炎上を招くといふ構図が気に入らないのです。鬼畜米英と叫び非国民と叫んだのは大衆ではなかつたかと。それによつて世論的マイノリティを攻撃したのは大衆ではなかつたのかと。
全体主義的な思想はある特定の権力者あるいは権力集団によつて拡げられるのみならず、その尻馬に乗つて無批判にその思想を喧伝するマスコミ、さらにそれに安易に乗せられる大衆によつてその思想は定着し、まさに時代の空気を作り出すのではないかと。前世紀の4大ジェノサイドの多くはこの構図によつて引き起こされ、幾百万もの犠牲者を作り出したことを考へると、斯様な構図には危機感を抱かざるを得ないのです。
われわれは大衆ではなく市民であるべきことが求められてゐるのであり、市民たるときは安易な喧伝に乗らず長期的な目線に立ち、批判的な目であらゆる物事の背景を探る考へ方が要求されるのであり、そのような要求には、まだ我が国民は応じられてゐないのではないかと考へます。21世紀のウェブ的市民に必要とされるスキルはまさにこのことであります。
われわれに必要なことは、反社会的と思はれる行為に対して安易に目くじらを立て、これを批判するのではなく、一度その背後に潜む思想を読み取ることであり、安直な正義感を持つてその行為を攻撃することではないのです。
なぜなら、安直な正義感はより多くの人を傷つけ、結局のところ大きな悪になることが多いからです。それは煽りに過ぎないばかりか、まさに小火を大火にする煽りになることもあるのです。
わたしは、剛直かつ柔軟な思想をなによりも重んじる、真の自由主義者でありたいと考へてゐます。現在の日本は一部のタブーを除き、諸外国に比べてもきはめて思想の自由を重んじてゐる国であり、これを得るために多大な努力を注いだ先人達に、わたしは最大の敬意を表するものです。その自由を守るためには、責任の伴ふ発言が必要なのではないかと考へます。自由には責任が伴ふものなのです。それを鑑みるに、現在の風潮はあまりにも無責任なのではないかと。自分が絶対的に安全かつ無関係であることをいいことに、無責任に他人を傷つけることが蔓延つてゐないかと、わたしは危惧するものであるのです。
とはいへ、空気は読んで欲しいのですけどね。特に、明確な管理者が居て明確な方針が示されてゐる場合はとくに。しかしながら、現在日本において美徳とされる「空気を読む」といふことすら、批判的に考へなければならない、といふことでした。
ちなみに正仮名遣ひなのはちよつとした思想の変化によるものです。個人的な文章は出来るだけ正仮名を遣はうかと。本当なら正字も遣ひたいところですが、まだまだ困難がありますので。
ふと思つたこと。清音と濁音の口の形は基本的に同じだけど、は行だけは例外。
言語学的な考察を聞くに、やはりは行の清音は昔は発音が違つてゐたらしい。今は"h"だけどちよつと前は"f"で、もつと前は"mp"だつたとか。現在の発音で揃えるなら、は行の濁音や半濁音はま行に揃えるのが近いか。
……なんの役にも立たない文系なネタ。
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